『ザリグ……』
夢の中、誰かの声、生ぬるい風、低い地鳴り。
『お前の……左腕を……』
恐ろしい響き、金属音、巨体、黒い影、赤い瞳。
『お前の……左腕を……奪……』
ザリグことザリグ・ド・ベルは豪奢な寝台からの上で目を覚ました。その様子を見て、寝台の傍の椅子でまどろんみかけていたステア・ミード・リルハーンも眠りの世界から叩き出された。彼女は左手に濡れタオルを持っていることも忘れ、両眼から流れる歓喜の涙を拭いつつ、永遠に死者の列に加わってしまったかと思われた王子の傍に移動した。
「ザリグ様、ご無事だったのですね……」
ステアは手に持った濡れタオルでザリグの額を拭いた。絹のような、真っ白な手だった。ザリグの額からは、玉のような汗が流れ出してきていた。
「ああ、ステアか……ありがたい……」
ザリグは寝台から深々とした絨毯の上に降り立とうとして、ステアの優しい制止にあった。
「ザリグ様、お体に障ります……もう暫く安静になさってくださいね」
ステアに押しとどめられ、彼は再び寝る体勢に入った。確かに彼は体中にだるさを感じており、少し頭を動かしただけでも目眩がするのだ。そっと右手を額に伸ばす。掌が濡れる。濡れタオルのせいだけではない、何かの熱病にうなされた後のように、酷い汗をかいていた。
(さっきの夢は、一体何だったんだ……?)
彼は眼球だけを動かして辺りの景色を観察した。どう考えても貧乏とは無縁の装飾の数々である。たった二人で共有するには広すぎる空間に、これでもかと高級感あふれる絨毯が敷き詰められている。壁は白を基調とした清潔感のあるもので、石膏像の彫刻のように磨かれている。天井にシャンデリア……は付いていなかったものの、それに近い金銀の装飾品が飾られている。広々とした窓からは大量の日の光が注ぎ込んでいるのだが、家具の一つとして痛んだようなものは無い。特に机など、ベル王国産の千年杉をふんだんに使った立派なものである。部屋の唯一の扉は木製の巨大なもので、黄金の取っ手がついており、鍵をかければ音さえ侵入できないのではないかという程の重量感を感じる。
そして、その扉の上に、何か巨大な生物の皮のようなものが飾られていた。
「あれは一体……?」
彼はその得体の知れないものを指差そうとして、ふと左手に違和感を覚えた。正確には、左腕全体に。動かないのだ。その困惑したような表情を見て、ステアは目を閉じて、静かに、ゆっくりと語り始めた。
「ザリグ様、気付いてしまわれましたか……」
「……ステア?」
彼女は決意したように語った。
「あなた様は、左腕を失ってしまわれたのです」
◆
ベル家はハイランド大陸南東部を統治する王家の一つである。旧王国の崩壊に伴って発足した新興勢力であり、豊富な国力が自慢の小都市である。大陸北部、デネブの泉より流れ出る大河ボルボレードがベル王家北の国境となり、南東は海に面している。温暖な気風の土地柄で、「国中に緑の風が吹く」と言われるほど、豊かな自然と発達した王都を持ち、人口も決して少なくない。
ベル王家の西の国境の向こうにはリレハンメルという王家が存在し、ベル家と同じように、徐々に力を蓄えつつある小国家である。近年までこの二国間の間で争いが絶えなかったが、つい一年ほど前のこと、リレハンメル王から和平の申し入れがあった。このまま二国が争っていては、いつまで経っても国力を空費するだけだと気付いたのである。ベル家の王、ラジアン・ド・ベルとの会談により、和平条約が締結された。結果として、リレハンメル家の王女、ステア・ミード・リルハーンとベル家の王子
、ザリグ・ド・ベルの二者は政略結婚を迫られる身となってしまった。
ザリグは父王からことの次第を聞かされて、大臣のボイル・ド・エッグに散々八つ当たりしたものである。
「父は私を政治の道具とでも思っているらしいな」
しかし、どうやら二者の初対面の場には、恋愛の天使が群れを成して舞い降りていたらしい。二人ともその場で運命の人を見つけ、いつの間にやら政略結婚という大前提は水平線の彼方に消えてしまっていた。その僅か数日後、二人は両国全域に婚約を発表した。両国の国民は、この世界一運の良いカップルを盛大に祝った。
その時、ザリグは未だ左腕を失っていなかった。
◆
『ザリグ……』
夢の中、誰かの声、生ぬるい風、低い地鳴り。
『お前の……左腕を……』
恐ろしい響き、金属音、巨体、黒い影、赤い瞳。
『お前の……左腕を……奪……』
赤い舌、ひび割れた皮膚、巨大な牙、猛獣の咆哮。
『……左腕を……奪うぞ……お前の……』
何度目かの夢の中の声にうなされ、ザリグは跳ねるようにして寝台から起き上がった。右手で額を触り、大量に発汗しているのを悟ると、諦めたように絨毯を踏みしめる。目の下には少しばかりクマが出来ており、健康的な彼の顔の造形美を著しく損なっていた。彼は朝食の席に足を運ぶ前に、扉の上に飾られた得たいの知れないものを睨み付けた。
(あれはどう考えても、何かの動物の皮だ……それにしても、あまりに大きい……単なる作り物にしても、悪趣味なものだな……近い内に取り払ってしまおう……)
彼は右手で黄金の取っ手を握り、王宮の廊下に足を踏み入れる。朝食は王家一同やら大臣やらが全員で、王宮の一室で食べることになっている。
そこまで歩いていく最中に、彼はいくつかの視線とぶつかった。ある者は丁寧にお辞儀をしながら彼の横を通り、その際に左腕に哀れみの目を投げかける。高官になると、何も言わずに、ただ気まずそうに彼の傍を通り過ぎる者もいる。中には、彼の存在を視界に認めるや否や、彼と目を合わせないようにしてその場を立ち去る者もいる。
(この左腕を失ってからだ……)
彼は何度も自問自答したが、ついに答えは得られなかった。何故自分が左腕を失ってしまったのか、その理由がさっぱり思い当たらないのである。左腕を失くした時の記憶だけが虫に食われた書類のように抜け落ちている。
何度も部下や召使に尋ねたが、誰も答えを返さなかった。ただし、
「お許し下さい、王様に口止めされているのでございます。うかつに話すと、私の首が飛んでしまいます……」
という一言を除く。そういわれると、彼も追及することが出来ないのだった。
ステア王女に聞いても、答えは同じである。
「ステア、どうして俺が左腕を失ってしまったのか、そなたは何か存じていないだろうか」
「……私からは何もお答えできません。ザリグ様、ザリグ様はご自身で記憶を閉ざしてしまったのです、思い出すことをやめたのです……」
ステアは続けた。
「だから、私もこれ以上話すわけには参りません……」
ザリグは、分かった、と言うように小さく頷いた。
「しかし、辛いものだな……理由も分からず、大切な左腕を失ってしまうというのは」
半ば自嘲気味に、無理をしているように明るく笑うザリグ。そんな彼を見て、ステアは少し恥ずかしそうに、やや儚げに言った。
「左腕が必要なら、私がザリグ様の左腕の代わりになります」
「……」
「剣を振るうことも、盾となってザリグ様を守ることも出来ないか細い左腕ですが、ザリグ様がそれで宜しいと言うのなら……」
ステアは、ザリグに何を聞かれても、それ以上話そうとはしなかった。彼は彼女を追及するのをやめた。代わりに、残されたもう一本の腕で、彼女を強く抱きしめた。彼は、もう二度と左腕を失うまいと思った。この新しく手に入れた左腕を。
◆
『ザリグ……』
夢の中、誰かの声、生ぬるい風、低い地鳴り。
『お前の……左腕を……』
恐ろしい響き、金属音、巨体、黒い影、赤い瞳。
『お前の……左腕を……呪う……』
赤い舌、ひび割れた皮膚、巨大な牙、猛獣のような咆哮。
『……左腕を……呪うぞ……永久に……』
その声が聞こえてきたのは、王や大臣、諸侯との会議の席でのことだった。ザリグが放心しきった顔つきから元の精悍な顔立ちに戻ると、会議室の全ての目が彼に向けられているのに気がついた。
「王子様、お体は大丈夫ですか……」
五十も半ばに差し掛かり、見事な白髪と白髭を生やした大臣、ボイル・ド・エッグが心配そうに話しかける。他の目も同じことを心配していた。
「……大丈夫だ、大臣、続けてくれ」
意は了承した、とばかりに大臣は議題を話し始めた。
「……先ほども検討しましたように、現在王都では奇怪な事件が続発しております。国民からの報告から察するに、なにやら得体の知れない人物が都をうろつき回り、手当たり次第に国民を殺めていくという蛮行を行っている模様です。王都の警備状態を強化している最中ではありますが、ついに警備兵からも死者が出ました。奇妙なことに、死体には圧殺されたような痕が残っておりまして、とても人間の力では不可能な事態が起こっていることが予想されます」
「それで、今はどのような対抗策をとっているのじゃ?」と、国王。
「日没後の外出を禁じてから、かなり被害が少なくなった模様ですが……」
「そうか、それは良かった……」
会議が活発になった頃、ザリグは再び奇妙な声を耳にした。それは夢の中の、そして先ほどの声と酷似していた。
『呪ってやる……お前を……永久に……』
地獄の底から這い上がってくるような暗い声。
深い悲しみと強い怒りに後押しされたような声。
ザリグは、この声を頭の中から追い出そうとした。
「やめろ!」
ザリグの右手が動き、会議室の机の一つが悲鳴を上げた。
その後、長い沈黙が押し寄せ、多数の目が彼に注がれた。誰も何も言えずに、ただザリグを凝視するのみだった。
「王子様……」
沈黙に耐えかねたのか、エッグ大臣が声をかける。
「すまない、大臣。やはり今日は体調が優れないようだ」
それだけ言って、立ち上がると、彼は逃げるようにその場を立ち去った。
後に残された者は、口々に心配そうな、そして疑問の口を開いた。その疑問に答えられる人間はいなかったが。
王は呟く。
「あの遠征以来、ザリグはどうなってしまったのだ……」
「王子様は、あの一件以来、やや精神に失調をきたされてしまったのではないでしょうか……」
「口が過ぎるぞ、エッグ」
王は威厳ある言葉で大臣を牽制した。
「あやつは婚礼を、それもベル王家の浮沈に関わるほどの重大な儀式を控えているのだぞ。あの一件を忘れているなら、無理に思い出させて心を乱してはならんと思ったが……このままではわしの配慮に何の意味も無いではないか」
「失礼いたしました、無礼をお許しください」
平身低頭、謝る大臣など眼中に無い様子で、ラジアン王は重々しく呟いた。
「それでは、本日の議会はこれで終了とする」
◆
自室に戻ったザリグは、自分の頭の中で反響する声に悩まされていた。自身の持つ長大な机の前でしゃがみ込み、右手で頭を抱えた。今や頭の中の声ははっきりとした意識を持ち、彼に語りかけてきている。
『ザリグよ……我が復讐の牙を受けるがいい……』
「お前は、一体何者なんだ……」
『お前の左腕を奪いし者……今はお前の左腕を呪いし者だ……分からぬか?』
「……分からない……」
彼はいっそう深くしゃがみ込み、右手を絨毯の上につけた。失ったはずの左腕が熱く、肩の感覚が、まるで何か別のものに奪われたように無くなっていった。
『分からぬか……あれほどの悪業を行い、それでも思い出せぬというか……いいだろう……思い出させてやろう……見えるようにしてやろう……我の姿を……お前にだけ……』
瞬間、彼の体の中で何かが弾けた。左腕の付け根の部分から、何かが迸るように生えてきた。
それは、彼の記憶を呼び覚ますのには十分過ぎるほど衝撃的な姿をしていた。
苦痛の中で、もがき回りつつ、彼はその存在を確認した。
「蛇だと!?」
彼の左腕から、蛇が生えていた。
拳の代わりに、そこには蛇の顔があった。
腕の代わりに、蛇の胴体があった。
滑らかな鱗に囲まれ、黒光りする蛇の胴体が、彼の左腕として存在していた。
記憶が、完璧に蘇った。
◆
数週間前──
ザリグを司令官とするベル王国軍は、数万の歩兵と数千の騎兵を従え、大河ボルボレードの流れに沿って北進を続けていた。
その頃ベル王国周辺都市で、巨大な蛇による人食いの被害が多数発生していた。それらはデネブの泉周辺の湿地帯に潜む特殊な蛇で、肉食の性質を持つ、極めて獰猛かつ危険な生物だった。
婚礼を控えたベル王国王子は、この蛇を退治することによって自らの勇猛さとベル王国の武力を誇示しようとしたのである。これにはラジアン・ド・ベル他隣国リレハンメルの王も賛同した。彼らは凱旋によって王子と両国の華々しい未来に色をつけようとしたのである。また、国民を守るという姿勢を見せる意義もあった。唯一、ステアのみが遠征に難色を示したが、ザリグが懸命に説き伏せたこともあり、最終的には遠征が実行に移された。
遠征の前日、二人は月明かりの下、人気の無い王宮の庭園の一角で落ち合った。
「ザリグ様……ご無事を祈っております」
「安心しろ、ステア。俺は必ず生きて帰る」
遠征の前夜、二人は約束を交わした。
必ず生きて帰ってくると。
出発から数日後、ベル王国軍はついにデネブの湿地帯にたどり着き、早速蛇狩りを開始した。蛇は異様なほどに体力があり、手強い存在で、王国軍の受けた被害も相応なものだった。
しかしそこは訓練された兵と、武器と言えばその体のみ、という大蛇である。次第に王国軍が優勢になり、蛇たちを圧倒していった。傷付き、血を流しながら、蛇たちはデネブの泉へと逃げ帰っていった。
逃げる大蛇の群れと、それを追うベル王国軍。次々に手負いの蛇たちを切り裂き、屍を量産する。
ほぼ全ての邪悪の象徴を倒すと、王子達一行は新たな蛇を見つけた。
その蛇はデネブの泉の中から現れた。学のある兵士達が、思わず呟く。
「ヨルムンガンド……」
神話や伝承の中に伝えられる、巨大な蛇の化身、ヨルムンガンド。またの名を蛇神と呼ばれ、一部の易者や占い師などが神として崇め奉る存在にして、自然に対する畏敬と信仰の対象である。
王子達が出会ったその蛇は、全長が人の六倍近くもあり、頑丈な鱗を持ち、他の蛇の何倍もの抵抗力を持っていた。強大な敵を前に怯む王国軍一行だったが、先陣に立つ王子の活躍は目覚しく、ついにその巨大な蛇を退治することに成功した。
遠征が成功に終わり、デネブの泉周辺で大歓声を上げる王国軍一行。王子は自らの手で倒した蛇の皮をはぎ、それを片手に担いで自らの実力と勇気を誇示した。王子の部屋に飾ってあった、得体の知れない巨大生物の皮は、その時の蛇のものである。王国軍一行は、その王子の光と希望に満ち溢れた未来に拍手を送った。
この時、にわかに事態が暗転した。
最初に異変に気付いたのは王子だった。泉を振り向くと、湖面に巨大な影があった。
それが鎌首をもたげると、それだけで水位が変化し、大波が発生した。
そして、デネブの泉から巨大な蛇が姿を現した。
それは、瞳だけで先ほどの蛇の全長ほどの大きさのある蛇だった。
これこそがまさにデネブに潜むという伝説の蛇神であった。
恐怖の念に駆られ、背を向けて逃亡を始める王子達だが、蛇神の赤い瞳は獲物を逃しはしなかった。
信じられない速度で頭を動かし、王子に襲い掛かる蛇神。
次の瞬間、王子ザリグ・ド・ベルは左腕を失っていた。
『お前は神の怒りに触れたのだ』
放心状態で部屋の中央に立ち尽くすザリグ。左手の蛇が、赤い舌を出しながら言う。
『もはや我とお前は二つの存在にあらず、呪いによって一つになった者なり。お前はどうあがいても、我と、我が怒りと、我が呪いから離れることは出来ぬ』
「嘘だ……」
『虚言にあらず。お前は既に王都の人間を喰ろうて生きておる……』
彼の口から絶叫が迸り、左手から薄笑いが漏れる。彼は、エッグ大臣の言葉を思い出してしまったのだ。
(「奇妙なことに、死体には圧殺されたような痕が残っておりまして、とても人間の力では不可能な事態が起こっていることが予想されます……」)
彼の愛する王都と、その国民が、彼自身の手によって死を賜っていたのだ。
さらに、彼の左手は恐ろしいことを語り始める。赤い舌が動き、舌なめずりをするように、彼の顔の周りで乱舞する。
『お前も、最愛の者を失う辛苦を味わうがよい……』
そして、扉をノックする音が響いた。
◆
「ザリグ様……お体の方は、もう大丈夫なのでしょうか……?」
彼は見た、蛇が彼女の方に狙いを定めたのを。彼は悟った、彼女には蛇が見えないことを。彼の口から鋭い言葉が発せられた。
「来るな!ステア、俺に近寄るな!」
「……そんな、ザリグ様、一体どうしてそんなことを仰るのですか……?」
不思議そうに、いつもと違う婚約者の様子に怯えながらも、ゆっくりと近づいてくるステア。ザリグは奇声を発しながら後ろに下がる。足が机に触れる。逃げ道が無くなった。
「来るんじゃない、今の俺に近づくな!」
「何を怯えていらっしゃるのですか、ザリグ様?」
「近寄るんじゃない!」
彼はステアと、蛇に対して言葉を発していた。蛇、彼の左手は、まさにステアを捕食しようと近づいていった。
彼は机の上を見た、そこに、剣があった。あの蛇を倒したものだ。
彼は、それを手に取った。
「それ以上俺に近づかないでくれ!俺は、君を殺したくないんだ!」
「やめてください、ザリグ様……」
どうやら、彼が様子が完全に正常からかけ離れているのに気付いたらしい。恐怖に潤んだ目で、ステアは一歩ずつ下がり始める。声がかすれている。信じられないものを見ているような、それでもザリグの心を信頼しているような目をしている。蛇は、獲物を後一歩のところで逃した。
次の瞬間、ザリグは自分の目を疑った。
左腕が伸びている。
蛇の胴体が徐々に長くなっているのだ。
「扉を開けろ!今すぐ出て行け!」
彼は叫んだ。叫ぶと同時に、彼は右手に持った剣を高く振り上げた。
ステアの足は硬直した。愛する者、少なくともそう信じている者から恐ろしい恐怖を与えられ、彼女の思考は麻痺した。次の瞬間、蛇が彼女の顔を舐める。彼女は悲鳴を上げて、その場に崩れ落ちるように、手を突いて倒れる。顔は死者のように青ざめているが、何とか息はあるようで、手で這いずり回るように部屋から立ち去ろうとした。
そして、ザリグの剣が振り下ろされた。
◆
(どうして、こんなことになってしまったのだろう……)
王子ザリグの失踪から一ヵ月後。大臣、ボイル・ド・エッグは迫り来る政務の山を相手に必死に闘っている。忙殺されながらも、頭の片隅で、夢の中でも、王子のことを考えない日は無い。遠くから聞こえる悲しげな歌声が、それを思い出させるのだ。
(ザリグ様は、発狂されてしまったのだろうか……)
王子の部屋に広がる血溜りと、倒れたステアの姿、そして剣を持った王子。
その姿を見て、大臣はとっさには何も考えられなかった。「出て行け!」の声に驚き、慌てて扉を閉め、すぐに我に返り、倒れていたステアの手を取って部屋の外に出た。
(願わくば、あれが夢であって欲しいものだ……)
だが、それは夢であるはずなど無かった。だからこそ、彼は忙しい。彼だけではない、王宮に生きる者全てが辛さと忙しさを抱えて生きている。
彼は懐から手紙を取り出し、地下に向かう。
厳重に閉ざされた地下牢の中から聞こえる、美しいが、止むことの無い歌の響き。大臣は地下牢の前で立ち止まる。地下牢の中では、やつれて、過去の面影も無くなったステアが、狂ったように歌を歌い続けていた。透き通った透明な声は、澄んで、悲しいほどに大臣の胸に訴える。
大臣は、少しためらいつつも、手紙を取り出す。宛名の部分には、ステア・ミード・リルハーンと書かれている。
「しかし、今更このようなものを渡しても、もはやステア様には何の意味も無いだろう……」
大臣は、手紙の内容を思い出す。一語一句、正確に覚えている。
「我が愛しのステア・ミード・リルハーンへ
もし、君を手にかけようとした男への愛情が残っているのなら、この手紙を開けないで欲しい。
私は君に大変失礼なことをしてしまった。いくら謝っても謝りきれまい。あれは君の愛に対する裏切り以外の何物でもなかったのだから。
順を追って書こう。
私は例の蛇狩り遠征に出て、蛇神の怒りに触れ、己の左腕を失ってしまった。君も詳しいことは人から聞いて知っているのだろう。
その遠征で、蛇神に左腕を喰われて以来、私は狂ってしまったのだ。正確には、自分が狂っているのか、それとも狂っていないのかすら分からないくらいの狂気に襲われてしまった。
私が目覚めた時、君は私のことをずっと看病してくれていたのだろう。だが、最初に私の頭に浮かんだのは君のことではなかった。目覚める直前に聞いた蛇の声だった。
これが蛇神の呪いなのだろう。それ以来、私の頭の中に蛇神の声がこだまするようになったのだ。そして、こんなことを言うと笑われてしまうかもしれない、発狂した男に哀れみを抱くかもしれない。だが、少なくとも私には、蛇神が我が左腕を乗っ取ってしまったように感じられたのだ。
君が部屋に入る前、蛇神が私に話しかけた。
『愛する者を失う辛苦を味わうがよい』
この手紙を書いている内に分かった。私が殺した巨大な蛇は、この蛇神にとっての最愛の者……子か、もしくは妻(口調からすると)だったのだろう。その大切な存在の皮が、私の部屋には飾られていた……。
私は、近寄ってくる君を押しとどめようとした。
蛇神が私の腕となり、君を殺そうとしたのだ。勿論、君には私の左腕など見えなかっただろう。
私は蛇神を追い払おうとした。そして、剣を手に取ったのだ。
蛇神が君に襲い掛かろうとした時、私は自分の左腕を、蛇神を刺した。
私の左腕、失ったはずの左腕に痛みが走った。血が迸った。それでも、君を手にかける苦しみに比べたら、きっと些細なものだっただろう。
蛇神は死ななかった。蛇神は言った。『もはや我とお前は同化している。もはやお前には自殺もままならぬ』
私は恐る恐る自分の胸を刺した。何度も刺した、だが、血が溢れ出るばかりで、痛みを感じるばかりで、死ぬことは出来なかった。更に言う『我は人間どもと、お前に対する怒りを忘れぬ。幸い、都なら憎悪の対象にも事欠かぬであろう……』
その時、エッグ大臣が部屋に入ってきて、君を抱えて私の前から逃げ出してくれた。ありがたかった。もう少し来るのが遅ければ、蛇神は……私は君を殺してしまっていただろう。大臣には本当に感謝している。
私のことを狂っていると思うだろうか。今机に向かっていて、私はそう思う。
私は王都を離れる。どこか遠い場所に行くつもりだ。
これ以上都にいては、犠牲者が増すばかりだ。それも、我が国の国民や、君の国の人々が犠牲者になるのだ。
そのような事態だけは避けてしまいたい。君に会えないのは苦しいが、君を手にかけてしまうのは、より辛い。
この事態は、畏怖すべき神々に対して取らざるべき行為を行った結果なのだ。私の傲慢と、思い上がった自尊心が生み出した悲劇だ。私は神の怒りに触れてしまったのだ。私は、自分の領分を守って慎ましく生きるべきだった。今更後悔してもどうにもならないと分かっていながら、そう考えてしまう。
そろそろ、夜が来る。
君と別れるのが辛い。
だが、もう永遠の別れを告げる時間が来てしまったのだ。
さようなら、ステア。
──ザリグ・ド・ベル」
大臣は手紙を懐の中に閉まった。感傷に浸る時間は無いのだ。
ザリグの行為によって、ステアは精神に異常をきたした。彼女の両眼は何も見ず、彼女の両耳は何も聞かない。
そのことはすぐにリレハンメル王家に伝わり、二国間の平和は脆くも崩れ去った。リレハンメル家が宣戦布告したのは、それから間もなくのことである。
廊下を歩きながら、大臣は考えた──二国の関係は二人の絆によって結ばれていたのではないか、もう元に戻る希望は無いのだろうか──。
「大臣?」
呼びかけに応じて、大臣は足を止めた。名も無い兵士が立っていた。
「奇妙な噂が耳に入ったもので、お伝えしておこうかと……」
「噂とな?」
「ええ……なんでも、大陸の北からの風の噂らしいですが……」
──大陸北部、デネブの泉。
一匹の巨大な蛇が、月光を浴びていた。鱗は湿り、目は光を湛えている。
「……ステア……」
やがて、その蛇は泉の中へ入っていき、二度と地上に現れることが無かったという。
(終)