タモの灯火 〜三〜

 

 それはどれくらいの時間だったのか──

 その場にいた者は、一瞬と言うかも知れない。

 その二人──ケッタと野盗の首領なら、こう言う可能性もある。「まるで何時間もお互いの目を見ているようだった」と。ケッタと野盗の首領がお互いの目を見ていたのは、実際にはおおよそ数秒である。雨だれが屋根の端から滴り落ちる時間に等しいほどであろう。しかし、当人達の時間の流れは、まるで広河の下流の流れのように緩やかで、止まっているように思えるほどだったのだ。

 それはさておき、二人は一瞬の間お互いを見つめあうと、すぐに行動に移った。ケッタは真剣を炎の煌きの中にさらし、野盗の首領は短刀を抜いた。刃渡りは、丁度人間の二の腕くらいだろうか。宝石類のような装飾品は一切付いておらず、実戦向きの作りだった。

「覚悟はいいか?」

 その顔に余裕すら浮かべて……ケッタは空中に剣を振るった。まるで闇を切り裂くかのように。倉庫の燃える音、兵士の足音、それらの雑音の中ですら、空気を切る音は重厚な響きを持っていた。その場にいた兵士達は、皆その音を聞いた。「将軍は風さえも切り倒す」一瞬だけ、そんな言葉が兵士の口から漏れた。

 だが、風を切り倒す男は右腕に汗を掻いていた。指と指の間も、油と恐怖が入り混じったものによって濡れていた。勿論彼はそんなそぶりを見せないようにしていたが……。

 強い。

 百戦錬磨の男ならではの感想だった。

 見ただけで、構えただけで、相手の実力の程が知れるケッタも見事なものだが、その百戦錬磨の男に強いと思わせる、この盗賊は一体何者なのか?

 盗賊が動いた。その短剣も、炎の煌きを映し出す。生命力の燃焼を思わせる、一瞬の美しさが鋼の上を踊った。ケッタは即座にその短剣を弾き落としにかかった。

 横からの抜刀。

 その時、ケッタは確かに何かの手応えを感じた。金属と金属のぶつかる感触──今まで何度も体験してきた、あの感触。だがその感触を彼の手が感知したのは、ほんの一瞬だった。

 弾き飛ばした──。

 いや、違う──。

 暗闇の中で、刹那、切先と切先が火花を散らしたと思うと、息をする間もなく、短剣の先はケッタの鼻先に突きつけられていた。彼は一瞬でそれをかわしたが、第二、第三の攻撃が矢継早に繰り出される。

 捌かれたか──。

 次々と短刀の刃先が繰り出される。頬から二、三度血が飛んだ。がしかし、ケッタはすぐに体勢を立て直し、足を狙った斬戟を繰り出した。首領は一瞬で避ける。そして、後方への跳躍。ケッタの長剣の刃が止まった時、二人の間隔は開きすぎていた。何とか首領を遠ざけたケッタはまた剣を前方に構え、今度はこちらから行くぞ、という気配を発していた。黒き瞳の中に炎の赤が燃え上がり、焼きつくような視線を首領に浴びせかける。しかし、口元には笑みが浮かんでいた。

 強敵を見つけた喜びが、ケッタの心の琴線を震わせていた。

 面白い──。

 ケッタの猛攻が始まった。猛虎のごとき勢いで、首領に飛び掛る。一撃、また一撃……全て避けられたり捌かれたりしたが、彼の目論見は大方成功した。後ろに下がっていた首領は、自分の背中が熱くなっていくのを感じたはずである。一撃一撃を避ける度に、燃え盛る倉庫の方に追い詰められていった。

 形勢は一気にケッタの側に傾いた。遠めに見守っていた兵士達の顔にも安堵が浮かぶ。

「もう逃げ場は無い。罪を償うのだな!」

 その台詞とともに、長剣が真横に移動した。鍛え上げられた剣客でも交わすことの出来ぬほどの速度。さらに、その速度から生み出される衝撃は、どのような丈夫な短剣であろうと受け切れないものだった。

 しかし、彼が抜刀を終えた瞬間感じたものは、肉を切る手応えではなかった。骨の砕ける手応えではなかった。ちゃちな金属を弾き飛ばした音でもなかった。彼が感じたもの……それは風を切る感覚だった。だが、空気を切っている最中に、何か違和感があった。

 盗賊はケッタの攻撃を避けきることに成功した。後ろに逃げたわけではない。剣の下を潜り抜けたわけでもない、剣先のやって来る反対の方角に移動したわけでもない。盗賊は「上」に避けたのだ。

 剣が振り抜かれる直前に跳躍。そして、避けなければ剣先が盗賊の内臓を切り裂いていただろうというその瞬間、盗賊の両足は剣の上にあった。あの風のような抜刀を踏み台にしたのだ。そして、二段構えの跳躍で一気に倉庫の屋根の火の無い僅かな面積に降り立った。

 盗賊の動きは、人間業とは呼べないものだった。

 もし人間というのなら、その盗賊は、限りなく怪物に近い人間だった。

 七番国の中枢に動揺が走る。ざわめきが宴席を支配する。

「貴様……只者ではないな。名は何と言う?」

 ケッタの声は、極めて興奮を抑えたものだったが、やはり相当、彼自身も精神に衝撃を感じていた。実際の戦闘において、彼が一撃も加えることの出来なかった相手──武力において互角以上だった相手──は、その生涯でたった二人しかいない。最大の敵であるマサシ、そして今は亡き彼の兄……。今、そこに三人目が付け加えられた。名前こそ無かったが。

 燃え盛る倉庫の上と下で、二人は再び対峙した。が、今度は勝手が違った。

 盗賊の足場である倉庫が、完全に焼け落ちようとしていた。柱が折れ、屋根が崩れ、そして「足場」が、滝のように落ちた。滝が飛沫を撒き散らす代わりに、炎が火の粉を撒き散らしていた。それはケッタをも直撃したが、彼は全く意に介さずといった様子で盗賊の動きを見ていた。火の粉に油断すれば、その瞬間に短刀が首筋に迫ってしまうかも知れないからだった。

 彼の心配は杞憂に終わった。盗賊は、何とか必死に体勢を立て直したものの、燃え盛る地面の中に脚の置き場を見出さなければならなかった。それだけ、その隙だけあればケッタには十分だった。彼は長剣を上から振り下ろそうとした。

「待ちなっ!」

 まさにその長剣が盗賊の頭部を捕らえようとした瞬間、時は停止した。実に盗賊らしい、卑怯な、しかし最上に効果的なやり方で。

 ケッタの後ろから、再び声がかかった。「首領を逃がせ」そして、ざわめき。「この女の子の命がどうなってもいいのか?」

 首領と呼ばれた盗賊は、ケッタの剣先から逃れ、とても剣の届かないような場所に移動した。実にしなやかで、軽やかな動きで。ケッタは後ろを振り向いた。最悪の光景が彼の目に映った。そこにいるのは間違いなく盗賊の一人であり、その手には短刀が握られているのであり、そして、その短刀がコウランの首筋にかかっていた。彼女は気絶しているようにも見えたが、実際は恐怖のあまり凍りついていただけである。ケッタの背後で、何かが遠ざかる音がした。間違いなく、首領が逃げていった音である。

「効果覿面っと。タモ国をあっさり裏切ったあんたが、これだけ情に絡められるとはね」

 その盗賊は顔を露にしていたが、何しろ暗い中である、容貌はおぼろげにしか分からなかった。ただし、声や言葉遣いの若さから、どうやら相当に若い男らしいということは分かった。ケッタは長剣を構えて、再び歩き始める。

「おっと、それは待った。俺が立ち去るまで待ってくれ。でなきゃこいつの喉を掻っ切ってしまうぜ。それでもいいのかい?」

 再びケッタの動きが止まった。

「もう二、三歩後ろに下がってくれよ……そうそう、意外と従順なんだな。さて、そこに剣を置きな」

 ケッタは言われる通りに剣を置いた。それは部下達にとって衝撃以外の何者でもなかった。今まで尊敬してやまなかった将軍が、人質を取られたとはいえ、盗賊程度にあっさりと屈する……その不信感は七番国の将兵全体に、薄く広がっていった。だが、それを吹き飛ばすような一言も、彼は用意していた。

「人質を大事にすることだな」重い口が開く。「その子は、俺の首枷でも、お前の命綱でもあるのだからな」

 それは、「その子を殺したら、俺はお前を何の躊躇いも無く殺してやるぞ」という宣言だった。「全く、怖いことを言ってくれるぜ」その盗賊は、一歩一歩後ずさりしながら、徐々にケッタたち七番国の将兵と距離を取っていった。

「そうだ、最後にいい事を教えてやろう」

 次なる盗賊の発言が、第七番国全体を揺るがした。

「只今マサシ軍が侵攻中だ。それもオオコシ軍しか知らないような道を通って来てる」その盗賊は、実に嬉しそうな笑みを浮かべていた。「内部に密告者が居るんだろうな。それも強大な力を持った奴が」

「何だと……」

「ま、倉庫が焼け落ちた代金だと思ってくれよ。対価としては十分だろ?」その言葉を述べると、盗賊は短剣の刃先をコウランの首筋から外した。同時に、くるっと後ろを向き、闇に紛れるように消えていった。

 取り残されたオオコシ軍の間には、動揺が広がっている。「内部の密告者」そして、「マサシの侵攻」……誰もが落ち着きを失うに十分だった。そんな中、ケッタはゆっくりとした足取りでコウランに近づいた。彼女も放心していたが、それは将兵たちとはいささか違った放心だった。

「……何故」

 彼女はか細い唇を震わせて、やっとのことで声を出した。

「……何故あたいを助けた」

「助けていけないということは無いだろう」

「あたいのことなんか気にしなきゃ、あの首領も、あの男も斬れたんだろ」

「かもな……」

 ケッタは上級の将官を呼んだ。消火作業を終えたら、兵卒全体を一旦兵舎に帰すように、そして翌朝の四時に再び集まれと伝えるように言った。「一度会合を開く」そして、その将官に対し、こうも言った。「マサシ軍に対する対策を練り、そのついでに謀反者を叩き潰す。分かったな」将官は驚いたような顔をして頷くと、すぐに兵士に号令をかけ始めた。

 彼はコウランの方を振り向いた。

「もう子供には遅い時間だ。帰って寝ていろ」

「……あたいを無視して、切らなきゃならないんだろ!? じゃなきゃ……」

 ケッタはその大きな手で彼女の口をふさいだ。

「お前は疲れてるんだ。さっさと帰って寝ろ……。自分の体も大切に出来ないようでは、いつまで経っても俺には勝てん」

「……分かった」

 彼女はちょっと拗ねたような口調で答えた。「それにしても、酷い傷……」彼女は目ざとく、ケッタの頬傷を見つけた。ケッタはそう言われて初めて、自分が傷つけられていたことを思い出した。「安心しろ。大した傷ではない」彼は指先で傷口に触れた。あまり血は流れていなかった。「元の場所に帰れ。もう今日はこれ以上、お前が危機にさらされることは無い」

 彼女はもう一度ケッタの方を見た。そして、かすかな何か……笑みらしいものを浮かべて、「分かった」と繰り返した。その瞬間、初めてケッタは彼女の父親──自分が殺してしまった男──の気持ちが分かった気がした。勿論彼は子をなしたことも無いから、その気持ちが果たして父親的なものなのかと聞かれたら、「分からない」と答えただろう。だが、少なくとも彼が僅かに安堵らしきものを覚えたのは確かだった。安心すると、首領につけられた頬の傷が痛み始めた。

 だが、彼の本当の戦いは、これからだった。今からほんの数時間の間に、あらゆるものを片付けなければならない……。まず、強敵のマサシ軍と、腹黒い権力者のどちらから先に片付けるか……それを決めなければならなかった。


執筆日 (2004,1,24)


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