タモの灯火 〜一〜 |
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旧暦1562年正月。オオコシ領七番国──
囲炉裏の中で、炭の爆ぜる音がする。 上には銅鍋が吊るされており、その中にある燗徳利では、正月用の酒が暖められている。主人が一人で燗番をしており、その無骨で枯れた手は煙管を吸うために使われていた。 そこへ一人の青年が現れた。この燗番の息子だろうか、顔つきが非常に良く似ている。背格好は、甲冑をまとえば人並み程度になるだろうか、やや小柄な体躯である。顔に刻まれた皺の本数から、五十の半ばほどであろうかと思える燗番と比べると、やや頼りなげに映るだろう。 燗番は青年の姿を認めると、そっと手招きした。青年が彼の対極に座すと、燗番は徳利を取り出し、自分の側の囲炉裏の縁に並べてあった杯を、青年の方に押し出した。「飲め」燗番は告げた。「今日は正月じゃ。お前が酒を飲むには早いかも知れんが、遠慮せんでもええじゃろう」 「……」 対して、青年は口を閉ざしたままである。 「せっかくの支給品じゃ。無駄にすることもあるまいて」 燗番は杯に酒を注いだ。僅かな量だが、青年は手を伸ばそうとしない。 「お前も今年で十五じゃのう……。早いかも知れんが、元服じゃ。そこらの貴族や武士様のように派手なことは出来んがの」 老いた燗番は、自分の家の中を見回した。あちらこちらが傷だらけで、地震でも来ようものならすぐに倒壊してしまいそうな家である。小屋といってもそれほど遜色のあるわけではないだろう。雨の日は雨漏りがひどい。それでも雨に当たらない場所を選んでは、彼らは夜を過ごす。 「今年はええ年になるのかのう……。ケンタロウ殿は西に行ってしもうて、代わりに得体の知れんのが来てしもうた。その方が正月の特例じゃと酒を振舞ってくれとるんじゃがの……さて、どうなるやら」 青年は囲炉裏の炎をじっと見つめていた。木炭のところどころが赤く輝き、寒々しい冬の風を暖かなものに変えていた。その火が青年の目に映る。もし燗番が青年の目を覗き込んでいたら、その目に映る僅かな輝きが見て取れたであろう。 「今年は寒うてたまらん。熱燗が温いのぉ……」 青年は目を炭火から燗番の顔に移した。その目には、炭火の僅かな炎でない何かが宿っている。青年の目から強い視線が発せられた。 「……父ちゃん」 「飲むか?」燗番──青年の父が訊ねた。 「許してくれ……俺は、学を捨てる」 その時の父親の顔は……何といったらいいだろうか。顔全体に驚愕が広がっていった。目は大きく見開き、何か信じられないものを見るような目つきで、息子の顔を穴が開くほど凝視した。 「……どういうことじゃ。お前は今なんと言った?」 「……俺は学を捨てる。官吏にはならない……登用試験は受けない」 父親の目に涙は無かった。困惑が色濃いのだろう。直にそれは悲しみに変わり、涙を一粒や二粒こぼさせることになるのかも知れない。しかし、この時はまだ、この父親は、自分の息子の発言の意図を完璧には理解し得なかった。 父は、少しばかりの落ち着きを取り戻して、また訊ねた。 「それでは、お前は何になるのじゃ」 「俺は兵士になる。そして、戦に行くんだ」 父は頭を抱えた。彼の六番目の息子の言動は、二人が歩んできた生き方を真っ向から否定するものだった。 かつて、父には六人の子供がいた。息子四人に娘二人。男四人のうち、三人は従軍して帰らぬ身となり、二人の娘は生活苦からやせ衰えてゆき、ついに帰らぬ身となった。三人家族となった一家の住処は、戦火によって焼け落ち、妻は焼死した。残されたのは、父と、末の息子と、そして妻が自分の命と引き換えに残した書物だった。 それ以来、父はこの小さな囲炉裏のある家に住み、末っ子と幾ばくかの書物は、雨漏りのしない部屋に住んでいた。最後に残された末っ子だけは、兄達のように兵士にさせたくないというのが父の願いだった。徴兵を免れる唯一の手は、官吏登用試験に受かって、政治に携わることだった。オオコシ領と言えども、流石に官吏にまでは兵役を課さないからである。そして、末っ子は体こそ弱かったものの、頭は人一倍優れていた。 「どうして、どうして今更学を捨てる……。お前だけは兵士として」 すると、青年は囲炉裏の傍に手を突き、こう答えた。 「人伝に聞いた話だけど、官吏登用試験というのは、ほんの一握りの人しか受からないらしいんだ。それも、生まれた時からずっと、田畑を耕さず、書物を読んで暮らしてきたような人々じゃないと、絶対に受からないんだ。父ちゃん、知ってたのに、黙ってたんだろ? 現実を知ったら絶望してしまうとでも思ったんだろ!?」 父は息子の剣幕に対し、何も言えなかった。 「だけど、父ちゃんのおかげで俺は自分のやらなければならないことを見つけた」 「……何が言いたいのじゃ」 「官吏になるために勉強したんだけど、俺は国を憂うから官になろうとしたんじゃなかった。徴兵されるのが怖くて官になろうと思っていたんだ。ずっとこのことについて悩んでたんだ。もし仮に官になれるとしても、本当にそれでいいのかって……ずっと、そう思ってたんだ。だから、俺は自分でその道を断ったんだ。官になれそうにないと分かったからやめるんじゃない、もっと別の生き方があると思ったから、官になる道を断ったんだ。」 「……」 「俺は自分で自分の国を守ろうと思う。そう決意したんだ」 「……そうか」 父は力の無い声で頷いた。 「俺は今日で元服。今日から大人だ。今から仕官を志願してくる。それに、少しでも功を立てれば、褒美も出る」 「……」 「俺は、もう母ちゃんや姉ちゃんのような人を増やしたくないんだ……」 それだけ言うと、青年は立ち上がった。すらりと足が伸び、視線は遥か彼方を捉えていた。その視線の先にあるであろう、未来の敵を。青年は自分の父親を見下ろした。息子の言動に衝撃を受け、放心状態というところだった。息子は、これ以上未練を残すまいと、すぐさまその場から立ち去ろうとした。 「……待て」 突然岩木のような父親の唇が開いた。 「外は寒い。これを飲んでいけ」 父親は、徳利を差し出した。 息子はその徳利を受け取ると、杯に注ごうともせず、直接徳利に口をつけた。息子の喉を熱い液体が流れ、胃に焼けるような痛みが走った。しかし、息子はその酒を一気に飲み終えた。その時、息子は思った。これは、父の前で酒を飲む、最初で最後の機会なのだろうと。彼は自分に闘いの心得の無いのを知っていた。彼は父の目の前に徳利を置くと、その場に両手をついた。 「父ちゃん、不肖の息子を許してくれ」 その言葉に対して、父は何も言わなかった。その代わり、突然両手で囲炉裏の上の炭をどかし、灰の中を探り始めた。息子はそれを見て制止のために声を上げようとした。だが、父の気迫がそうさせなかった。 やがて、父は灰の中から一握りの袋を探し出した。 「これは……?」 息子は袋の中身を覗き込んだ。 中には、僅かに──しかし息子が見たことも無いほど──硬貨が詰まっていた。
やがて、息子の去った家の中で、父はただ一人、少しただれた手を囲炉裏の火にかざしていた。 彼の始めの息子も、二番目の息子も、三番目の息子も、同じようにして去っていった。学問の世界で身を立てることが出来ないと悟ると、今度は自分に何が出来るのかを考えた。そして、彼らは田畑を耕す道さえも捨てて、戦に身を投じるのだった。それが貧困から脱しようと、そして、戦乱の恐怖を一刻も早く止めるために選んだ道なのだ。 四番目も、また同じ道を辿るのだろうか? 老人となった父は、一人囲炉裏の前に佇む。 囲炉裏の灰の中に金貨は埋まっていた。しかし、捜し求める答えは、どこを探しても見当たらない。
このような事例について、後の統一王朝が成立して以後、西の賢者はこう述べている。 「古来より、民は血を流す者であり、官は血を吸う者である」と。 執筆日 (2004,11,09)
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