序乱 〜十七〜

 

 広河に沿ってタモ軍を覆い隠すような幕の前で、オオコシ軍兵士達は立ち止まった。時は夕暮れ、オオコシ軍がケンタロウとスエナガの指揮のもと、一兵の落伍もなく干あがりつつある広河を渡った彼らは、その長く張られた幕の前で驚嘆の言葉をもらさずにはいられなかった。それは際限なく続いているように見られ、近付けば近付くほど、視界の中に幕の切れ目が見えなくなってくる。

「それでは、行くぞ」とケンタロウ。その声に待ったをかける者がいた。

「待ったほうがいいのではないか?」

 スエナガだった。「待って、オオコシ軍本体との合流を図るのが良いのでは?」と、慎重論を付け加える。

「黙れ、スエナガ!」ケンタロウは激怒した。「ならば貴様だけここで待っておれ」

 スエナガはうなだれて、ケンタロウの前から後退した。階級だけで見れば、発言力は同等のものがある二人だが、実際にはあらゆる点でケンタロウの権限が強い。そもそもケンタロウとスエナガを比較する時点で間違っているとも言われている。

 しかし、この時はスエナガの、作戦としては間違っていない慎重論をケンタロウが一蹴することになった。ケンタロウにも言い分はある。作戦を立案したのなら、時と場合を考えて発言しろと言いたかった。慎重論を唱えるのなら、せめて広河を渡る前に告げるべきなのだ。ケンタロウは、せめてその程度のことはスエナガに要求したかった。

「いや……豚に空を飛べというようなものか」彼は無理矢理自分自身の感情を納得させる。

 それから、彼はすぐに幕を切れと命令を出した。ばっさりと幕は落ち、タモ軍の姿が見えるはずである。この時、彼はふと「幕切れ」という言葉を思い出した。オオコシ本体の到着を待つまでも無い、自分の手で決着をつけてやる、という思いが心の中を満たす。

 幕が落ち、ついにタモ軍の姿が明らかになった。先陣に立つのは、紅い鎧の大男。

「進め!」

 猛将の合図によって、タモ軍へ向けてオオコシ軍が前身していく。数的にはほぼ同数、まさに広河戦が幕切れを迎えようとしていた。

 

 オオコシ軍の侵攻に対して、キュウイは以下のように解釈している。

「ケンタロウ将軍は完全にこちらの罠にはまってしまった。彼は堤防を決壊させ、こちらへとやって来るオオコシ軍の到着を待って我々を挟撃すべきだった。そうすれば、彼は自らの手勢を大幅に減らすことなく、楽に我々を撃破しえただろう。また、彼が幕にもう少し注意を払っていたなら、戦況は違ってきていただろう」

 更に、こう述べている。

「一回の戦闘で同じ手を二回も使うのは、正直褒められた話ではないな……。弱点に付け込むのは兵法の常道だが、出来ることなら綺麗な勝ち方をしたいものだ。まあ、効果が出ればいいか……」

 オオコシ軍が切った幕の合間から突入してくる。迎え撃つのは、元タモガミの部隊を指揮するケッタ。そして、その背後には残り千前後のタモ軍が待機している。蟻の巣からはいでるように出てきたオオコシ軍を、出来るだけ多い数で迎え撃つ。紅い鎧がひとたび動けば、オオコシ軍がその進撃を止める。

 ケンタロウ、スエナガは後方から戦闘を指揮する。「前進せよ!」と大声を張り上げるのはスエナガで、作戦も何も考えていないのではないかと思われる。しかし、スエナガの指揮するのはほんの二百兵前後であり、戦況を左右するほどの兵ではない。正直な話、指揮官がスエナガでは遊兵と同じである。

 日が傾き、それに連れて、ゆっくりとオオコシ軍がタモ軍に入り込む。前線で獅子奮迅の活躍をするケッタらに対し、数の上で劣勢だが、執拗な攻撃でその勢力を削りつつあるオオコシ軍。タモ軍内に約半数の兵が入り込み、もう少しで勢力はオオコシ軍優勢となる。

 その時、異変が起こった。

 オオコシ軍の後方で悲鳴が上がり、一瞬オオコシ軍全体が後方を見る。彼らは信じられない物を目の当たりにし、一瞬だが、攻撃の手を緩めた。その一瞬に、猛烈にケッタが攻めかかる。

 ここで、オオコシ軍が見た物は、一体何だったのか?

 

 そもそも、キュウイ達はどこへいたのか?

 彼らはオオコシ軍との戦闘にて、タモ軍に幾つかの恩恵をもたらした林──第一回の戦闘ではこの林の中に大量の油を隠し、オオコシ軍を撃滅させた、あの林である。第二回ではオオコシ軍が即席の橋をかけ、それを迎え撃った場所──に隠れていた。オオコシ軍が目の前のケッタらに気をとられ、ここにキュウイが数百の兵を配置していることには気付かないだろう、そう読んでの布陣である。読みは当たった。

 オオコシ軍が幕を越えてまさに二分されようという時、彼らは切り落とされた幕と、切り落とされず、宙に浮いたままになっている幕に火をかけた。幕を形成する布には油が十分染み込まれており、瞬時にタモ軍の陣地の前に炎の壁が出来る。

「あざとい手だが……敵を倒そうと思ったら、まず相手より多い兵力で攻めるのが兵法の常道。広河が戦略的に意味をなさなくなった今、地形的条件を利用して敵を分散させるのは不可能。しかし、このように相手が迂闊に攻め込めないような仕掛けを施せば、不可能ではない」

 それだけ言うと、キュウイは数百の兵を操るため、良く鳴り渡る笛を吹いた。

「行くぞ!」

 

 キュウイの策により二分されたオオコシ軍は二倍近い敵に狙われ、一気にその数を減らしていく。さらにキュウイによる横からの猛攻も加わり、オオコシ軍先陣の約九百の兵は瓦解しつつあった。それでも尚オオコシ軍は執拗な抵抗を続ける。ケッタらが先陣でオオコシ軍を切りつけ、追われたオオコシ軍は火の壁の前まで下がる。

「何故だ、何故救援に行かん!」

 ケンタロウは、炎の壁を前にして、火の輪くぐりの出来ない獅子のように怯むオオコシ軍を叱咤した。炎の壁が彼らの頭や脚を炙る度に、オオコシ軍兵士達は一歩後退する。タモ軍の敷地内に入っているオオコシ軍も同じことで、炎の壁まで追い詰められては、無理な体勢になりながらも反撃を返すのである。まるで、火を怖がっているように見える。

 ケンタロウは、ふとキュウイの策の意味を理解した。オオコシ軍は広河戦第一幕で、キュウイの策にはめられて「大火の中無事生還」した者が大多数なのだ。生きるか死ぬかの瀬戸際で、迫り来る炎。オオコシ軍が炎に恐怖心を抱いていたとしても不思議は無い。彼は初めてキュウイの策の意味が分かった。オオコシ軍に植え付けた、火に対する恐怖心。それを最大限に活用しようというのだ。

「このままでは、我々が圧倒的に不利ではないか……」

 次第に数を減らしていく味方を見て、あまりの悔しさにはぎしりするケンタロウに、副官、ヘウは声をかけられなかった。やがて、彼は意を決したのか、タモ軍が用意した炎の壁に近付いた。

「聞くがいい、腑抜けた虎どもよ」

 彼はオオコシ軍全体に向かって、大声で語りかける。

「オオコシ軍は炎を恐れる惰弱な虎だったか!いや、我々は炎さえも征服する猛虎!」

 そう言って、彼は一気に炎の壁をくぐった。

 これを見たキュウイは言った。

「流石は勇将だ……彼自身も炎に対する恐怖心は植え付けられているだろうに、オオコシ軍の士気を高めるために一気に突破してしまったか」

 この突破を機に、一気に士気が上がるオオコシ軍。ケンタロウに続き、オオコシ軍兵士達が一気にタモ軍へと流れ込む。数的にはタモ軍が優勢だが、流れは変わりつつあった。


執筆日 (2004,02,07)


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