序乱 〜十四〜

 

 広河決壊というオオコシ軍の作戦を指揮する指揮官は、まだ若く、無名の存在であった。

 決壊を指揮する無名指揮官の元へ、見張りの一人が重大な情報と共に駆け寄り、彼に作戦指揮に関わるほどの巨大な驚きをもたらした。

 その情報の内容はただ一つ。敵国の王子、タモガミを捕虜とした一団が、対岸から白旗を揚げてオオコシ軍との接触を求めている。

「その者はタモガミに間違いないか?」

「青く輝く鎧を着けた若者、目の良い者が見ましたところ、どうやらタモガミで間違い無い模様です」

「ふん……そうだな、船を出せ」

「承知しました」

 無名の指揮官は、自らも自然の上に出来た堤防の上まで歩を進め、対岸にいるタモガミと、タモガミを捕虜にした者達の姿を認めた。青い鎧を着けているのが恐らくタモガミだろう。しかし、その隣で待つ者は……視界が霞み、はっきりとした姿を認めることは出来なかった。

 彼の心は、期待感とその他様々な感情により昂揚していた。上手くいけば、これが彼自身の手柄となり、オオコシの重要な臣下の列に名を連ねることが出来るかもしれない。気分はまるで昇格前の二等兵。

 やがて、その姿が大きく、はっきりと見えてくるにしたがって、彼の心を別種の驚きが支配するようになった。

「まさか、あの女は……コショウ?」

 

 やがて、船に乗った二人は対岸に上陸した。コショウは左手でタモガミを縛る縄の一端を持っており、もう片方の手には何も持っていない。タモガミの方は、手足が縛られており、自由に身動き出来るとはお世辞にも言い難い。歩いているというよりは、コショウにずるずると引きずられているという感じが強い。無名指揮官の前で、コショウはこう言い放った。

「オオコシ軍特殊部隊、夕刻隊のコショウです」

 タモガミは思わず目を見開いた。ここまでの事実は彼には告げられていない。

「へえ、あなたが有名なコショウか」

 彼は興味深そうにコショウを見つめた。彼の頭の中にある夕刻隊と言えば、対オオコシ軍特殊部隊である。その指揮官、コショウといえば、その有能さと外見とは、また違った意味で有名であった。

 オオコシによるタモ国侵攻策。その作戦案が立案された時から、夕刻隊は行方不明になっていたのである。オオコシは急いで全軍に通知を下したが、指揮官以外にその顔と名前が一致する者はいなかった。これはオオコシの迂闊さを示すものだろうか……。

「夕刻隊、今をもって本国へと帰還を果たしました」淡々と語るコショウ。

 タモガミは、もはやコショウの言葉がどのようなものであっても、動じないようになってしまった。連続する刺激のために、驚きに対する感覚が鈍ってしまったのだろうか……と、彼は密かに疑問に思った。それとも、人を一人殺したら二人も三人も同じだ、という殺人者のような心境なのだろうか。無名の指揮官は、「工事」を中止させ、彼女の言葉を聞き入っている。彼女には、場を作る一種の雰囲気のようなものがあった。彼女は先程から、タモ国へと潜入を果たし、内情を探ったこと、タモガミを拉致したことなどを、「報告」した。その内容に偽りは無かった。

「……オオコシ陛下への手土産は、以上のようなもので宜しいでしょうか」

「いや、私の一存では何とも……大体無断でオオコシ軍を抜け出した、軍規を乱したことは刑罰にあたるのでは……」

「『敵を騙すなら、まず味方から』奇襲の常識でしょう」

「………」

「それから、夕刻隊隊員のオオコシ軍への帰還のため、船を出していただけないでしょうか。対岸へ待機させたままではタモ軍に討たれる可能性もありますので」

「……分かった」

 無名の指揮官は、力無く呟き、部下に十分な数の船を出撃させるようにと命令した。彼の目の前で淡々と武勲を語る者の指揮官としての階級は彼を上回っており、おまけに唱えているのは正論。彼が逆らえるはずが無い。

 彼は完璧に落胆した。敵国の王子を捕えるという、辺境の一指揮官としては滅多に手に入らないチャンスが、彼の手のひらから零れ落ちて行ったことを悟った。知らず知らずのうちに、彼は右手で握り拳をつくっていた。だが、この悔しさはその程度で表現出来るものでは無かった。彼は右手を柄にかけようとした。

 去っていく数十隻の船を視界の端に捕え、同時に、コショウは目の前の同僚の行動を察知した。彼女は溶岩も凍るほどの冷たい視線を投げかけ、相手の出方を待たずして言葉を発した。心情とは裏腹に、恐ろしく丁寧な口調だった。

「まさか、私を斬ろうというのでしょうか?」

 機先を制された若き指揮官は、慌てて柄から手を離した。明らかに狼狽しているようで、その様子が彼女の失笑を買った。無名の指揮官は心の中で、冷や汗と悔し涙をいっぺんに流してしまったのだろうか。俯いて荒い息をしている。あわよくばコショウを倒し、その手柄を自分の物に……という考えは、彼の心の広河中流を流れている。しかし、その判断はかえって良かったのかもしれない。もし彼がその思惑を実行に移せば、思惑とは全く逆の展開になっていたという可能性が強いのだから。

 彼女は、再び広河の対岸から近付いてくる船団を視界の端に捕えた。そして、タモガミの方へ振り向き、笑みまで見せた。

「それでは、オオコシ軍へ留まっていただきます。あなたはタモ国に対する重要な切り札……酷い扱いは致しませんので、ご安心下さい」

 そのタモガミに対する丁寧さも、彼女の残酷で辛辣なやり方なのだろうか。一層裏切られたという思いを募らせたタモガミは、悲しそうな目で彼女を見つめた。長い沈黙の後、彼女は思い口を開いた。

「タモガミ様……そのような目で見つめないで下さい。私だって、このようなことはしたくないのですよ。そうそう、それから十五の時まで農民だったとか、そういう話は嘘ではありませんわ。そのようなことは事実ですから……ただ、オオコシ軍として徴兵されて、見出されて……。気付いたらこのような地位になってしまっていたのです」彼女は夕刻隊がこちらの岸に上陸したのを見て、小声で少しだけ付け加えた。「ええ、勿論分かっていますよ。言い訳にならないということは……」

 やがて夕刻隊が堤防を乗り越え、コショウと合流した。

「それでは、これから私達はオオコシ軍本体と合流します。あなた方の堤防の破壊には、流石に手伝う暇が無いでしょうから」

「分かった。コショウ殿も頑張ってくれたまえ!」

 底抜けに明るい無名指揮官。半ば捨て鉢になっているのがよく分かる。そう思うと、コショウは密かに柄に手をかけ、言った。

「それでは、もういいでしょう」

 その瞬間、彼女の柄から鋭い一閃が放たれ、若き無名指揮官の首は宙に舞った。


執筆日 (2004,02,04)


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